1992年10月、バンダイはメディア事業部の映像ソフト事業を、バンダイビジュアルへ移管。企画・製作・発売・販売の各部門が統合された。実績を積み上げてきた渡辺繁は、97年6月、40歳の若さでバンダイビジュアル代表取締役社長に就任し、世界マーケットを視野に入れた国際水準の作品を製作すべく映像技術の革新も図る「デジタルエンジン構想」を提唱する。10月には赤坂プリンスホテルで、大友克洋、押井守両監督作品の大型企画開発を進めるべく製作発表記者会見を開催。翌年2月に渡辺は渡米し、『タイタニック』公開直後のジェームズ・キャメロン監督に、デジタルエンジン構想への協力を依頼するという果敢な行動に出た。
■ガンダム20周年のリファイン
そうした動きも風雲急を告げる98年5月8日、渡辺はサンライズの植田益朗常務から電話を受けた。サンライズは94年からバンダイのグループ会社になっており、渡辺は取締役に就任していた。『機動戦士ガンダム』シリーズのプロデューサーを歴任してきた植田は、富野由悠季と打ち合わせ中に、渡辺へ相談を持ちかけたのだ。
「植田さんからの電話の要件は、富野監督がガンダム20周年記念TVシリーズ、仮称『リング・ガンダム』のデザインのリファインを、シド・ミードさんにお願いできないだろうかと考えているので、彼と懇意にしている僕に話をつないでほしいというものでした。その夜、ミードさんの代理人の市川実英子さんにメールしました。サンライズ側で作成したイメージラフを僕が預かって渡米した際、直接お願いしたいとお伝えしたんです」
翌日市川から、ミードの興奮と感激ぶりを伝える返信が来た。そして「すべてナベちゃんのお陰だと私たちは思っています」と、仲介した渡辺への親愛の情を表している。
渡辺には、あらかじめ再度キャメロンを訪ねて打ち合わせをする予定が入っていた。5月20日、パサデナに構えたシド・ミードの新居を訪問。同行した大友と押井に別室で控えてもらい、サンライズ吉井孝幸社長と富野監督から預かった親書と、オリジナルガンダムのデザイナー大河原邦男から預かった叩き台のラフを手渡して、新作のメカニックデザインをミードに発注した。言わば「猫の首に鈴を付ける」のが、渡辺の役目だった。これが正式タイトル『∀ガンダム』におけるミード・デザインの始まりである。
■個人的なアドバイス
「あとはサンライズの制作現場へ引き継いだわけですが、まあ、いろんな事態が起こったようです」と渡辺が示唆する出来事を象徴的に表しているのは、「零戦の改造をお願いしたつもりだったのに、グラマンを提案されてしまったという印象がある」という富野の言葉だろう。
当初ミードは、「モビルスーツがなぜ人型なのか、よくわからなかった」とさえ発言している。ハイスクール時代に『宇宙の戦士』を読んでロバート・A・ハインラインに会いに行ったほどだというから、同作に登場する強化装甲服「パワードスーツ」には親しみがあっただろう。その発想にインスパイアされた『ガンダム』の「モビルスーツ」が、兵器のようでいて『マジンガーZ』に端を発する巨大ロボットアニメの発展形でもあり、キャラクターであることを理解するには、時間を要したようだ。富野やサンライズのスタッフとの間で、丁々発止が繰り広げられる中、ミードは渡辺に意見を求めている。
「確かに、市川さんを介して個人的にアドバイスしました」という渡辺が保存している、98年6月8日の市川宛メールにはこうある。
「ガンダムデザインの件ですが、人間ぽさは必要ですが愛嬌がありすぎてもいけないと思います。仏像同様、神秘的で、かつ親しみやすいという相矛盾した命題への答えが必要かと思います。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の成田亨のデザインはそのひとつの答えです。(略)昔、画集編集の折、ミードさんの子供ターゲット企画があまりにも子供におもねったデザインなのが気になりました。表情がありすぎるのです。冷たくなく、しかし子供っぽくない。実に難しい命題です。能面ではありませんが、感情を感じさせるシンプルデザインが必要でしょう。村上さんは、それにある答えを出してきました。それがパワーレンジャーになっています。ミードさんのライバルは案外村上さんかもしれません」
文面にある「村上」とは、渡辺の元上司にして「超合金」シリーズを開発し、『勇者ライディーン』『電子戦隊デンジマン』『宇宙刑事ギャバン』などの生みの親、村上克司である。玩具を知り尽くしたインダストリアル・デザイナーの仕事を引き合いに出して参照を促し、発奮させようというディレクションだ。
■最も永続性のあるミード・デザイン
ミードは、従来のガンダムとは何かを受け止めた上で、構成する個別の要素を分割して検討し、そこから崩して再構成していった。既存のデザインと同質の雰囲気をもちながらも、独自のスタイルへ変換するのがミード流だ。実はこのとき、ミードが日本のアニメーションに関する仕事を手がけるのは初めてではなかった。『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサーからの依頼で『YAMATO2520』における、ヤマトのリファインを手がけたことがあった。88年に実写映画としてスタートしたその企画には、制作会社側の事情で長い歳月関わることになった。企画は94年にOVAに切り替わり、95~96年に3巻までリリースされたが、制作会社倒産のため未完のまま終わっている。
「足掛け6年も費やした『YAMATO2520』にミードさんは心血を注ぎました。手がけるにあたって、まず原点である日本海軍の『戦艦大和』に遡り、平面図や側面図を取り寄せています。その後アニメーションの『宇宙戦艦ヤマト』の資料を入手し、検討し分析しています。その上で、全長400メートルの〈第18代ヤマト〉を艦の内部からデザインしていったそうです。そのとき、日本のアニメーションの仕事における咀嚼の仕方を学んだのでしょう。最初のガンダムとは何かについても、かなり研究しています」
完成形にファンが騒然としたのは、口元に生えた「ヒゲ」だった。ミードにとってそれは、ヘルメット型頭部から突き出したV字アンテナを、兜のイメージを利用してずらし、再配置した「チークガード」だったわけだが。
初見では渡辺も違和感を唱えたが、ミードは渡辺の助言に従うかのように、村上に意見を求めていた。いや、代理人の市川が気を回して尋ねたのかもしれない。いずれにせよ、村上はこう答えた。「大丈夫、まったく問題ない。俺にもこういうのがある」(『超合金の男 -村上克司伝-』アスキー新書)。ミードに村上が見せたのは、自身がデザインした『ゴッドシグマ』だ。その頭部は、頬から巨大なヒゲならぬトゲを生やしていた。
「ミードさんは膨大な数のデザインを手がけていますが、それが結実して実体化したものは決して多くない。スピナーは代表作ですが、今でも僕らがすぐに買えるのは、マスプロダクトの工業デザインである玩具です。『∀ガンダム』で依頼されたのは、根本的には模型のデザインと言えます。それはバージョンアップし続けながら生き永らえている。これはデザイナーにとって大きい。アニメーション創造の現場では、確執も起きたかもしれません。しかし最終的には、ミードさんが企図した通りの形になった。日本のスタッフはみんな驚いたわけですよ。こうすればガンダムは本当に動くんだと。それによってガンプラの構造も変わり、設計し直し肩なども上がるようになった。否定するかどうかは別として、今思えばあのチークガードはまさにミード・デザインです」
『ブレードランナー』で描かれた2019年がやってきた。画集『センチネル』に心奪われて40年目の渡辺は、盟友植田益朗に誘われて興した会社を拠点に、国内では34年ぶりとなる本格的な「シド・ミード展」開催の準備に余念がない。映画界に進出した代表作が『ブレードランナー』である事実は皮肉めいている。ミードが自発的に描く未来観は極めて楽天主義的なものだから。リドリー・スコットの指揮の下で創り上げた悲観的未来は現実を予見し、メタリックな流線形が彩る美しく調和のとれた世界が“過ぎ去った未来”と呼ばれて久しい今、ミードの描く世界がもつ意味とは何だろう。自らの哲理とスタイルを、知的で明るい「未来のリハーサル」であると言い続けてきたミードの作品群に、今なお惹きつけられるのは、未来をあきらめていない証ではないか。
■チェスリー・ボーンステルという縁(えにし)
「ミードさんと出会ってかなり歳月が経ってから知ったことがあります。彼がその道に入る上で最も感化されたのは、『宇宙の征服』でした。ウィリー・レイが文章を書き、チェスリー・ボーンステルが挿絵を描いた1冊の本です。マーキュリー計画以前、ロケットが地球を離れて太陽系を旅する絵物語を、1940年代末の天体物理学の知識に基づいて説いた科学書です。惑星のある位置から観た光景を正確に計算し、写実的に描いたんです。衛星から観た土星の環の精密なタッチなど後の天体画家たちはみな影響を受けており、SF映画にも多大な影響を与えた、当時の天体に関するビジュアル的知識の集大成。リアルなイメージに宇宙への夢を育まれ、その道の仕事に就いた人たちも大勢いるそうです」
ちなみにチェスリー・ボーンステルは、幼少期に天文学に憧れ、美術や建築を学んだ。1920年代にニューヨークの高層建築の設計図を、30年代にはサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの完成青写真や透視図を描いた。40年代に入るとハリウッド映画のマットペインティングを手がけ、50年代のSF映画ブームでは『月世界征服』『地球最後の日』『宇宙戦争』などにおいて、映画美術の第一人者となった。
「ミードさんは『宇宙の征服』をハイスクール時代に、父から買ってもらったそうです。確かな科学的知識に基づくアイデアを元に、正確かつ精緻に描くミード作品の原点である書籍は、実は僕が、高校の図書室で手に取って大きな影響を受けた本でもありました。故郷会津の冬は暗く絶望感が強かったけれど、宇宙への夢に目を見開かれました。浅はかにも一時期、天文学者になろうと考えたことさえあります。ミードと僕は、知らず知らずのうちにこの本でつながっていたと思っています」
何よりも縁(えにし)を重んじる渡辺にとって、この絆は大きい。ロジカルでありながらエモーショナルなミード・スタイルは、どこか渡辺繁の言動に通底するものがある。希望に満ちた未来は、過ぎ去ったのでも潰えたのでもない。ポジティブな選択をし続けることで掴み取るものだ。きっと2人はそう捉えている。
ある夜、接待の懐石料理に飽きたミードは、新宿の焼鳥屋で渡辺と飲んでいた。ミードがはめていた白ベルトの腕時計を覗きこみ「いいですね」とつぶやいた渡辺に、「あげよう」と彼は差し出した。咄嗟に、なくては困るだろうと思い、渡辺は自分の腕時計を外して交換することにした。何の変哲もない黒ベルトの腕時計は、今もパサデナのリビングの壁に掛けられている。わびさびを知るミードが、経年による遅れなど気にするわけもなく、日本時間を共有する「クロノナベ」は、希望ある未来に向かって時を刻んでいる。
未来のリハーサル ~シド・ミード×渡辺繁40年の軌跡~
◀︎ 第1回 天才フューチャリストとの邂逅
◀︎ 第2回 三位一体プロジェクトの作品集
文◉清水 節(しみず・たかし)
1962年、東京都出身。映画評論家・クリエイティブディレクター。日藝映画学科中退後、映像制作会社や編プロ等を経てフリーランス。映画雑誌「PREMIERE日本版」「STARLOG日本版」等で編集執筆。映画情報サイト「映画.com」「シネマトゥデイ」、映画雑誌「FLIX」等で執筆中。ニッポン放送他に出演中。海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」日本上陸を働きかけDVDを企画制作。円谷プロの新プロジェクト「ULTRAMAN ARCHIVES」で企画制作。遺稿集「眞実/成田亨 ある芸術家の希望と絶望」編集執筆。著書に「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」(共著) 。WOWOWのドキュメンタリー番組「ノンフィクションW/撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画構成でギャラクシー賞、民放連賞、国際エミー賞受賞。
■雑誌・ムック
「インターコミュニケーション」NTT出版 1992年4月号
「映像 プラス02」グラフィック社 2007年
「SFマガジン」早川書房 1999年6月号
「カースタイリング別冊89 1/2/シド・ミード――具現化された未来感覚」三栄書房 1992年
「キネマ旬報」キネマ旬報社 1991年5月下旬号/1991年10月上旬号/1999年5月下旬号
「シネフェックス日本版」バンダイ 1983年AUTUMN 2号
「スターログ日本版」ツルモトルーム 1983年4月号~6月号
「ニュータイプ」角川書店 1991年9月1日号
「B-CLUB」バンダイ 1990年12月号/1991年1月号~9月号
「モーターファン別冊/カースタイリング」三栄書房 1976年SUMMER
■DVD
「ビジュアル・フューチャリスト シド・ミード その創造と秘密」エモーション 2007年