シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019

2019.4/27(sat)▶5/19(sun)

アーツ千代田3331

SPECIAL

未来のリハーサル ~シド・ミード×渡辺繁40年の軌跡~ 第2回 三位一体プロジェクトの作品集

SENTINEL II ©️Syd Mead, Inc.

 市川実英子からシド・ミード画集の発行を持ちかけられた渡辺は、実情を説明して断らざるを得なかった。
「その頃は、主軸の子供向け絵本と『シネフェックス日本版』をこなすのが精いっぱい。20代半ばの自分は、書籍流通の右も左もわからぬまま取次や印刷所を回り、ビデオソフトメーカーとしての出発も重なって、もがきながらこなしていました。予算的にも人員的にも、当時のフロンティア事業部が受けるのは無理でした」
 紆余曲折の果て、市川の持ち込み企画は講談社に採用されることになる。『OBLAGON(オブラゴン)』と題するそのシド・ミード画集は1985年3月に刊行され、発売から45日間で異例の2万5000部以上を販売した。ヒットを受けて講談社は、ミード初の画集の改定翻訳版『SENTINELⅡ(センチネル2)』を87年に発行した。
 渡辺は地団駄を踏んだ。悔しさをバネに「いつかは自分も」という思いが募り、企画の芽が育っていく。

SENTINEL II ©️Syd Mead, Inc.

SENTINEL II ©️Syd Mead, Inc.

玩具メーカーの新規事業

 そもそも、玩具メーカーがなぜ出版業へ進出したのか。70年代前半、万創という新興勢力が手がけていたアイデア商品『とびだすえほん』が成功した影響は大きいと考えられる。バンダイは、玩具販売のノウハウを活かし、『うごく絵本』『ポップ・アップえほん』と母親層へアピールした幼児向け商品の開発によって、77年に出版事業部を創設。市場規模も販売店数も、玩具より遥かに大きな出版業界に未知の可能性を見出して進出した。アメリカのベストセラー絵本『ゴールデンブック』の出版意図について、社史『萬代不易 バンダイグループ三十年のあゆみ』には次のような記述がある。「おもちゃのバンダイがその永年のキャリアをいかして玩具のもつ三つの特性、すなわち『触覚』『視覚』『聴覚』のイデアを絵本の中に展開」「さらに一歩進めて、見せる本、読んできかせる本、読む本の三つを前提に世界の一流作家、画家によってなし得たバンダイのゴールデンブック(略)を刊行」。逸早くマルチメディアを志向した企画意図から、後発企業の意気込みが伝わってくる。
 その後、商品構成を拡げ、折からのSF映画ブームに乗って『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』『宇宙からのメッセージ』に関するストーリー本や特撮の秘密本を出版したものの、SF映画ファンのニーズを見誤った編集内容が裏目に出て、返品率は高かった。その経験に基づくのが、ターゲットを絞り込んだ『シネフェックス日本版』だ。こうした果敢な市場創出の延長線上に、先陣を切って挑んだビデオ業界への参入もあった。

 渡辺は、立ち上げたレーベル「EMOTION」のマーケティングやコンセプト作りから営業・管理に至るまでの一切を手がけ、世界初のビデオ用オリジナルアニメ(OVA)となった押井守監督作品『ダロス』のリリースも83年に行った。さらに、アマチュア映像制作グループとして頭角を現してきたDAICON FILMを母体とする制作会社ガイナックスの劇場用映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を企画プロデュースし、87年3月に公開。しかし直後、渡辺は過労のため倒れてしまう。故郷・福島に帰って鬱病との診断を受け、7ヵ月もの休職を余儀なくされる。そして職場復帰後、問題山積のディズニー課に配属され、日本初のセルスルービデオのキャンペーン展開を担当することになる。この経緯については、別項で詳述しなければならない。

Leonov(2010) ©Syd Mead, Inc. © Warner Bros Entertainment Inc. All rights reserved.

Leonov(2010) ©Syd Mead, Inc. © Warner Bros Entertainment Inc. All rights reserved.

映像付き集大成的作品集の提案

 バブル経済の只中にあった88年4月。バンダイはメディア事業部を新設し、映像事業への本格的な進出を始めた。程なくして、映画製作資金を求めて蠢く老獪なプロデューサーたちに取り巻かれる状態になっていく。海外から出資を求めて接近してくる話も少なくなかった。狂騒の最中、バンダイはとあるSF映画への出資を持ちかけられる。それは、作家レイ・ブラッドベリを筆頭に、シド・ミードの名を目玉として記載した企画だった。
『ブレードランナー』以降のシド・ミードは、『2010年』の宇宙船「レオノフ号」、『ショート・サーキット』のロボット「ナンバー・ファイブ」、『エイリアン2』の宇宙船「スラコ号」、『クライシス2050』の宇宙船「ヘリオス」といった大作・話題作のデザインで、映画のキャリアを順調に進めていった。同時に、バブル期の日本企業はミードにとって重要なクライアントだった。タイガー魔法瓶のエアーポットから、レジャー施設や大型テーマパークのアトラクションまで、ミードは精力的に先鋭的なデザインワークをこなしていた。

Sulaco Full Profile©Syd Mead, Inc. © 1986 Twentieth Century Fox. All rights reserved.

Sulaco Full Profile©Syd Mead, Inc. © 1986 Twentieth Century Fox. All rights reserved.

 メディア事業部に配属された渡辺は、SF映画出資案件で、久しぶりに市川実英子から連絡を受けた。ミードの名も冠したその企画は、脈を感じないバブル期の徒花だったが、この機に6年前のリターンマッチができないかと考えた。シド・ミード画集発行の悲願を叶える敗者復活戦だ。複数の日本企業との仕事を抱えて来日し、分刻みのスケジュールをこなすミードと、89年10月13日に渋谷の中華料理店「桃の木」で会う機会を得た。
「実は87年2月、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターで開いた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』ワールドプレミア試写会にミードさんを招待しましたが、そのときは遠目に拝顔しただけでした。初めてお会いした席上、画集について話しました。絵をノドで裁ち切るような既存の編集に不満を抱いていたので、理想的な画集を作りたい、と申し上げたのを覚えています。そして、映像付きの集大成的な作品集を提案したところ、即座に快諾していただきました。“一度画稿を観に来るか”と誘っていただき、ミード邸に行く流れになったのです」

画集+コンセプトワーク集+LD

 89年11月下旬、渡辺は、映像ディレクターの森まさあきを伴って渡米した。森は、EMOTIONレーベルのオープニング映像を制作し、SFXにも詳しく数多くのCMを手がけていた気鋭の演出家だ。『トータル・リコール』撮影中のSFX工房を視察がてら、2人はビバリーヒルズの寿司屋でミードと落ち合って、彼自身の運転でハリウッドの自宅を訪ね、画稿素材の見立てを行った。渡辺は、ある発見をする。世に知られているイラストレーションばかりでなく、アイデアを得る過程のラフスケッチや、完成予想の透視図であるレンダリングが、膨大に保存されているではないか。そして意外にも狭い作業場にカメラを入れ、ミードの描く姿を間近に観たいと考えた。
 このときの取材に基づき、映像付き作品集という渡辺の構想は具体化する。完成したアートワークの「画集」と、アイデアを展開していく思考を垣間見る「コンセプトワーク集」という2冊の本。さらに、定規も使わず完璧な円や直線を描く技法プロセスを撮影し、プロ・アマ問わず創造の秘密を知りたいクリエイターのための“動く教科書”となる「レーザーディスク(LD)」。三位一体のセット構成だ。言うなれば、『うごく絵本』を嚆矢とするバンダイ出版物の、新しい時代に即した発展形と言っても過言ではない。そして渡辺は、完璧な豪華本を期すれば高価格になることを踏まえ、返品可能な書店流通ではなく、買取売切りを前提とするLDボックスにしてビデオ流通を活用するという、ビデオソフトメーカーならではの戦術を企てたのだ。

Entering Stargate©️Syd Mead, Inc.

Entering Stargate©️Syd Mead, Inc.

「90年7月、森さんやアニメーションスタッフルームを中心とするビデオ撮影チームと、『スターログ日本版』元編集長の高橋良平さんやスタジオハードの高橋信之さんを中心とする編集チーム。出版・印刷を統括したバンダイメディア事業部出版課の故・加藤智さん。海外経験も豊富なインタニヤの奥村正己さんというスチルカメラマンら総勢10名くらいのスタッフ編成で約2週間、ミード邸に毎日通いました。デザイナーは『機動警察パトレイバー』でお世話になっていた田島照久さん。僕の上司だったメディア事業部の部長が、シド・ミード作品の意義を理解している早川忠継さんだったからこそ、予算を立てることができました」
 実演収録のためにミードは、宇宙船とスペースオルカをモチーフとする『ENTERING STARGATE』を描き下ろした。その手法は、フリーハンドで描いた線をトレースし、仕上げまでトレースと彩色を繰り返して正確に描いていくステップ・バイ・ステップと言われるものだ。もう一点、房総半島から東京湾を望む夕陽に染まる未来都市『TOKYO 2040』も描き下ろし作品だ。こちらは、当時の東京の地図を入手しコンピュータに取り込み、立体的に変換して正確なパースを起こし、手前にそびえ立つ半円形の超高層建築物を描き加えた。3台のカメラで、ミードの息遣いや筆さばきに肉薄したベーカム映像は、約20時間分に及んだ。当初20分にまとめる予定だった創作過程のLD収録時間は、見せ場を割愛することなく、60分へと延びることになる。

TOKYO 2040©️Syd Mead, Inc

TOKYO 2040©️Syd Mead, Inc

放心状態になったミード

 ミードは、この時点までの自らの軌跡の集大成的作品集を『KRONOLOG(クロノログ)』と命名した。“クロノ”はギリシャ語で時間、“ログ”は英語で記録を意味する。それは、3つの要素で構成されている。学生時代の習作を含む約130点の代表作を、6色カラーB4判144ページに収めた画集「クロノテコ(テク=技術の集大成)」。これまで紹介されることがなかった手書きメモや指示書などを含む約700点を、4色・2色・1色使用の328ページに収めたコンセプトワーク集「クロノベクタ(ベクトル=準備段階の線画)」。そして初めて公開されるシド・ミードの仕事ぶりや、テクニックが解明される3枚組のLD「クロノビド(ビジョン=映像)」。この画集のために、ミードは解説文を書き下ろし、英語と日本語の両方で掲載された。

 91年11月、東京・赤坂プリンスホテルで、完成した『クロノログ』を渡辺から手渡されたミードは、「夢のようだ。これは私の子供だ!」と言ったかと思うと、感極まって涙した。打上げパーティーの後、ミードは放心状態になる。「人生の道程が投影されすぎていて、走馬灯のように過去がよぎったんだ。幸福の絶頂にいる私は、もうこれで終わりじゃないか……」。その夜、彼は独りで赤プリの周囲をぐるぐると歩き続けたという。
 91年12月、税抜4万5000円の『クロノログ』(LD版)は3500セット発売された。92年にVHS版、93年にはCD-ROM画集『クロノログ2』をリリース。媚びない価格帯、妥協なき編集内容、本物を解する者を感化してやまない作品の数々は、マーケットにもユーザーにも衝撃を与えた。
 それから長い歳月が流れ、ミードが所持するLD版ボックスの外装がボロボロになっていると知った渡辺は、『クロノログ』を1セット日本から送り届けた。するとミードは、「なぜ新しいものを送ってきたんだ?」と眉をひそめた。あまりにも古びた状態ゆえ忍びない、と渡辺が理由を告げると、「いや、この状態がいいのさ。“わびさび”ボックスだ」と笑った。人が訪ねてくる度に見せているから傷んでいく。多くの人に見てもらい手垢にまみれていくことにこそ、ミードは心の充足を感じている。


未来のリハーサル ~シド・ミード×渡辺繁40年の軌跡~
◀︎ 第1回 天才フューチャリストとの邂逅
▶︎ 第3回 ミード・ガンダム誕生の舞台裏


文◉清水 節(しみず・たかし)
1962年、東京都出身。映画評論家・クリエイティブディレクター。日藝映画学科中退後、映像制作会社や編プロ等を経てフリーランス。映画雑誌「PREMIERE日本版」「STARLOG日本版」等で編集執筆。映画情報サイト「映画.com」「シネマトゥデイ」、映画雑誌「FLIX」等で執筆中。ニッポン放送他に出演中。海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」日本上陸を働きかけDVDを企画制作。円谷プロの新プロジェクト「ULTRAMAN ARCHIVES」で企画制作。遺稿集「眞実/成田亨 ある芸術家の希望と絶望」編集執筆。著書に「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」(共著) 。WOWOWのドキュメンタリー番組「ノンフィクションW/撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画構成でギャラクシー賞、民放連賞、国際エミー賞受賞。