いつの時代も、熱狂的に迎えられたものが、必ずしも歴史的な評価に耐えうるとは限らず、時間をかけてようやく正当な評価を勝ち取るものがある。その年の映画界は、老若男女から涙を搾り取る「異星人と少年の友情譚」とともに明けた。若干35歳のスティーブン・スピルバーグ監督作『E.T.』は、1983年の正月映画として82年暮れに公開されて社会現象を巻き起こし、配給収入96億円を突破した。
歴代興行ランキングトップを記録した甘く感傷的なSFファンタジーの陰で、前年夏に公開されたSFノワール『ブレードランナー』は知る人ぞ知る映画になっていた。ハリウッドに乗り込んだ才気あふれる英国人監督リドリー・スコットが美意識を全開させて撮った問題作は、アメリカのみならず日本でも興行的な惨敗を喫したのだ。
■『ブレードランナー』の衝撃
しかし『ブレードランナー』は、鑑賞した少数の観客を打ちのめし、その革新性が語り草となってじわじわと浸透していった。寿命制限が設けられたレプリカントと呼ばれる人造人間の叛乱。外見上は人間同然の彼らを判別し、始末する使命を帯びた専任捜査官ブレードランナーの捜索を縦軸とする近未来ハードボイルドには、様々な魅力的要素が凝縮されていた。絵画やグラフィックデザインを熟知するリドリー・スコットが創り出した光と闇の交錯するルック。『2001年宇宙の旅』の視覚効果を手掛けたダグラス・トランブルが最先端の特撮映像で描き出したディストピア。都市を覆う汚染された大気の中を漂うヴァンゲリスのサウンド。そして、フィリップ・K・ディックの小説を原作に、人間とは何かと問いかける深遠なテーマ。
■ビデオレーベル創設とSFX専門誌創刊
「『スターログ』を愛読し始めて洋書店に通うようになり、『センチネル』は大学時代の79年に銀座のイエナ書店で購入していました。もちろんラフォーレミュージアムで開かれた企画展にも足を運んでいます」と振り返る渡辺繁は、『ブレードランナー』とは真逆ともいえる、ミード作品本来の希望ある未来にも魅せられていた。
83年3月、バンダイ傘下のポピーに入社して2年目の渡辺は、グループ会社7社の吸収合併によって、バンダイのフロンティア事業部に配属されることになった。ポピーで『リアルホビー』を開発した渡辺は、「怪獣復活計画」の展開を道半ばで断念することになり忸怩たる思いがあった。映画・アニメ・特撮に滅法詳しい“新人類”が、玩具メーカーにとって全く未知の領域である新規事業に抜擢されたのだ。
それは、ビデオ店のアンテナショップを経営していたバンダイが、自らビデオソフトメーカーを立ち上げ、レーベルを創設する任務だった。と同時に渡辺は、部内の出版課において適任者不在だったアメリカの雑誌『シネフェックス日本版』創刊の編集統括を志願した。70年代後半のSF映画ブームを契機に、アメリカにおけるスペシャル・エフェクツの略称をコピーのように当て、ハイテク制御の特撮映像を日本ではSFX(エス・エフ・エックス)と呼ぶようになっていた。映画の舞台裏を覗く機会が少なかった時代に、特撮工房をリポートし、作り手の声を届け、撮影技法を詳説するSFX専門誌『シネフェックス日本版』は、映像クリエイターや映画ファンのバイブルになっていく。
当初、この雑誌の翻訳出版企画をバンダイに持ち込んだブローカー的な人物が、編集作業も請け負っていたが、映画技術の専門用語に難渋するなど制作進行が滞っていた。渡辺は事態を改善すべく、采配を振るった。
「用語監修のため、その分野に詳しい聖咲奇さんと高貴準三さんに加わっていただきました。それでも翻訳版の進行自体に問題があったので、編集プロダクションを翔ブラザースに変えて、稲田隆紀さんに編集長に就いていただき、2号目以降は態勢を整えました。シリーズ完結編として公開される『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』を創刊号特集として夏に発行し、冬には『ブレードランナー』特集号を出すことに決めたんです」
公開前に渋谷パンテオンの試写で観た渡辺もまた、『ブレードランナー』に衝撃を受けた1人だ。
「旅立つ車中で終わるナレーション付きのバージョンだったので救われた気がします。デッカード・セダンに乗り込み、光の中を進む2人のシーンまではあったのですが、突然、緞帳が閉まり始め、音楽が流れたまま終映。エンドロールは白身のプリントで、シド・ミードのクレジットは確認できませんでした」
最初の公開版は監督が望まぬ形だった。スタジオ側が“わかりやすく”編集したものが公開された後、ビデオ産業の隆盛とともに、監督の意に沿う方向で、いくつものバージョンが徐々にリリースされていったという事情も、『ブレードランナー』が時間をかけてカルト化した要因のひとつであることは間違いない。
■シド・ミード画集出版の可能性
バンダイのフロンティア事業部に、シド・ミードを愛してやまない渡辺繁という熱き若手社員がいる。そう聞きつけて、83年晩秋、ある女性が訪ねてきた。元ツルモトルームの社員だった市川実英子である。市川は『スターログ日本版』をベースに企画展開した「国際SFアート大賞」の協賛をバンダイに取りつけていた。「21世紀のカーデザイン展」を開催した際、の招聘に携わり、来日滞在中にアテンドした人物でもあった。
フリーになり、ミードに見込まれて代理人になっていた市川は、ある仕事を請け負っていた。それは、日本でシド・ミードの画集を出版するというミッション。ミードは、自らレイアウトした見本版を制作して市川に託した。その目的を達成すべく、市川は伝手を頼りに出版関係者を訪ねて回っていたのだ。
未来のリハーサル ~シド・ミード×渡辺繁40年の軌跡~
▶︎ 第2回 三位一体プロジェクトの作品集
▶︎ 第3回 ミード・ガンダム誕生の舞台裏
文◉清水 節(しみず・たかし)
1962年、東京都出身。映画評論家・クリエイティブディレクター。日藝映画学科中退後、映像制作会社や編プロ等を経てフリーランス。映画雑誌「PREMIERE日本版」「STARLOG日本版」等で編集執筆。映画情報サイト「映画.com」「シネマトゥデイ」、映画雑誌「FLIX」等で執筆中。ニッポン放送他に出演中。海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」日本上陸を働きかけDVDを企画制作。円谷プロの新プロジェクト「ULTRAMAN ARCHIVES」で企画制作。遺稿集「眞実/成田亨 ある芸術家の希望と絶望」編集執筆。著書に「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」(共著) 。WOWOWのドキュメンタリー番組「ノンフィクションW/撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画構成でギャラクシー賞、民放連賞、国際エミー賞受賞。